高山茶筌・左文

歴史

高山茶筌・左文のこれまでの歴史をご紹介致します。

 

今から五百年余り以前の足利義政の時代、この高山は大和国添下郡鷹山村と称し、清和源氏源頼光の後裔を名乗った鷹山氏が奈良興福寺官府出仕の僧兵として、一万八千石を賜り鷹山村を支配していた。

大膳介頼栄の次男民部丞宗砌、又の名、入道宗砌は山名弾正家に仕え家長となって奈良水門町に住んでいたが、当時流行の連歌、和歌に優れ竹林抄の一人であり、又勅筆流書道の達人として有名であった。近くに住む称名寺ゆかりの茶人、村田珠光とは文雅を通じて親交が厚く珠光が初めて茶道を考案した時、茶道に相応しい攪拌する道具の製作を依頼され、苦心を重ねて作り上げたのが茶筌の始まりであった。

その後珠光が京都に移り珠光庵に時の帝、後土御門天皇の御幸を仰いだ折、宗砌より献上の自作の茶筌を天覧せられ、その着想と精巧なるを以てお賞めのお言葉なり加えて“高穗”の御銘を賜ったのである。

宗砌は感激して茶筌の製作に励むと共に郷里の鷹山に持ち帰り鷹山家の秘伝とした。その後、御銘高穗茶筌が有名になり時の領主は地名なり家名の鷹山を廃し高穗に因んで現在の高山に改めたのである。

珠光によって始まった茶道も千利休によって侘び茶として確立され、現在の隆盛の礎となった。

織田信長が全国制覇を志した際、時の領主は松永久秀に味方して敗れ領地を没収される憂き目に逢い以来浪人の身とはなったが、頭領として高山に残り豊臣秀吉の北野の大茶会には茶筌二百本を、又徳川家光上洛の際も奈良奉行の命に依り茶筌を献上しており、毎年禁裡仙洞両御所への納入は長く明治維新まで続いた。

高山頼茂の代になって永年の宿望が適い京極家に仕官する事になり一族だけを率い丹後の宮津へ赴任して行ったが、高山を離れる折、家臣の主だった者十六名に秘伝の茶筌製作、販売を許したのであった。

以来これら家臣十六名は苗字帯刀を許され、頭領の言いつけ固く守り茶筌の仲間を集結して生まれ姓を名乗る男子以外には茶筌の製作を許す事はなかった。

時代は移り変わり昭和の時代を迎えても秘伝は固く守られて来たのであるが、戦時の終局近くになり、人不足の為この制度は崩れ、秘伝とされて来た技術も一般に公開される様になり、最近に至って新しい茶筌業者が数多く誕生する様になったのである。又先年五百年の歴史とその技術を認められ、通産大臣より伝統的工芸品と指定されたのである。

近年、外国産茶筌が出回り、又外国製品が輸入され奈良高山産の自家製品と偽たり、国内産として、大々的に販売をしている悪質な業者が多数出現している。
しかしながら茶道は日本を代表する文化の一つであり、日本文化を知る者のみが持つ、優しさ、思いやりの精神によって、見た目は同じでもおのずから製品が異なるのではあるまいか?
使う人の身になって綺麗で、使い易く長持ちするを信条に茶筌作りに勤しんでいる今日この頃である。